東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001 東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001

第6章 大型研究計画の推進

6-9 文部科学省国家基幹研究開発推進事業「沿岸海域複合生態系の変動機構に基づく生物資源生産力の再生・保全と持続的利用に関する研究(沿岸複合生態系)」

沿岸海域は藻場・干潟・マングローブ・珊瑚礁など,熱帯林と並んで一次生産の最も高い生態系から構成され,地球全体の生物種の多様性を支えている.2000~2010年まで行われた第1期の「海洋生物のセンサスCensus of Marine Life, CoLM」によると,日本周辺海域に生息する3万数千種の生物のうち26%を軟体動物門が,19%を節足動物門が,13%を脊索動物門がそれぞれ占めている.生物資源として重要な種を数多く含むこれら分類群の多様性が高いことが日本周辺海域の特徴であり,それは日本周辺海域が世界三大漁場のひとつに数えられる基礎となっている.

しかし,人間活動の影響が集中する沿岸海域では,海岸線や河川環境の人為改変,富栄養化と汚染,外来種の移入などによって,本来の生態系機能が損なわれている.ハゼ類,キス類など数十種の沿岸性魚類が絶滅危惧種とされるに至り,沿岸漁業の生産高は1985年の227万トンをピークとして2007年にはその57%にまで減少した.生態系機能を劣化させた沿岸海域が,今後急速に進行すると考えられる地球温暖化や海洋酸性化に伴ってどのように変化するかは,食料生産を維持する上でも生物多様性保全の上でも重要な問題である.

本研究課題は沿岸海域生態系の構造と機能を解明し,それに基づいて劣化した生態系機能を再生・保全して,沿岸海域の「海の恵み」を持続的に利用する方法を定式化することを目的とし,大気海洋研究所(研究代表者:渡邊良朗),京都大学フィールド科学教育研究センター(代表:山下洋),香川大学瀬戸内海研究センター(代表:一見和彦),水産総合研究センター東北区水産研究所(代表:栗田豊)の4機関が参画して,2011年から2020年までの10年間計画で開始された.

本研究では沿岸海域の構造と機能を次のようにとらえる.温帯から亜寒帯の沿岸海域に隣接して存在する河口干潟,外海砂浜,岩礁藻場等を個生態系と考え,それらが相互に連環して複合生態系を構成する.物質や生物粒子は個生態系間で流動・分散し,それを基礎として個生態系内で一次生産が起こり,多様な生物種がそれぞれ選好する個生態系内に,あるいは個生態系を跨いで生息して,複合生態系内の生物群集を形成する.個生態系が改変を受けたり個生態系間の連環が損なわれると,複合生態系の資源生物生産機能が劣化する.

わが国の沿岸海域において,生物資源はこれまで基本的に種個体群単位で保全策や利用策が講じられてきた.しかし,世界で最も種多様性が高い海域のひとつであるわが国の沿岸海域において,特定の種を単独で評価・管理する試み,生物群集内の害敵や競合種を排除して標的種の優占度を極度に高めて生産する農業的な試みは,いずれも有効ではなかった.本研究ではこれらに代わって,天然の生態系機能を基礎として,生物群集内において資源生物を持続的に生産するという群集生態学的アプローチを,新しい生産技術の基礎として定式化することで,種多様性を保全し,四半世紀にわたって減少の一途をたどってきた沿岸漁業・養殖業生産を再生させる.

本研究では沿岸海域を生物生産の場とする生物資源として,干潟や河口を初期成育場とするニシンとスズキ,外海砂浜域を中心に生息する底生性のヒラメ,岩礁藻場に生息するアワビ類,干潟砂浜域に生息するアサリとマナマコを取り上げる.寒流域・暖流域・内海域の準定常状態における海域間比較を第一の方法として,複合生態系の構造と機能解明する.津波による撹乱を受けた東北地方太平洋沿岸の生態系がたどる二次遷移過程の追跡を第二の方法として,複合生態系の成立過程を明らかにする.その上で,複合生態系の諸機能の保全に本質的な諸過程を明らかにし,それら諸機能が保全された結果として得られる生態系サービス(食料供給,炭素吸収,水質浄化,景観形成など,人間社会が複合生態系から受ける物質的,心理的利益)を定量的に評価する.また,複合生態系の構造と機能を基礎として,温暖化や酸性化の影響が沿岸海域においてどのように現れるかを予測する.