東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001 東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001

第6章 大型研究計画の推進

6-7 科学研究費補助金特定領域研究「大気海洋物質循環(W-PASS)」

「海洋・大気間の物質相互作用計画」(SOLAS: Surface Ocean-Lower Atmosphere Study)は,国際学術連合会議(ICSU)によって設立された地球圏―生物圏国際協同研究計画(IGBP)第2期の国際コアプロジェクトである.海洋と大気の境界を中心とした地球規模の海洋生物活動も含む現象を化学,物理,生物分野などの研究者が一体となって解明することを目的に,2004年に立ち上げられた.我が国においては,SOLAS-Japanの中心となるプロジェクトとして,2006年7月から5年間の特定領域研究プロジェクト「海洋表層・大気下層間の物質循環リンケージ(大気海洋物質循環)」(W-PASS: Western Pacific Air-Sea interaction Study, 2006~2010)が実施された.W-PASSには29の研究機関,89名の研究者が参加し,他のIGBP関連プロジェクトとも密な連携を図った.海洋研究所からは,植松光夫教授が領域代表者を務めたのをはじめ,計画研究11件,公募研究延べ23件のうち,総括班および計画研究,公募研究計6件に11名の本所教員が参加し,中核的役割を担った.

W-PASSは主に,生物が介在する大気圏,水圏の相互作用を研究対象とした.人類活動要因も含めた大気変動に海洋生物がどう応答し,生成する気体を通して大気組成へどのような影響を及ぼすのかを定量化し,最終的には気候へのフィードバックを解明することを目的とした.そのために大気化学,海洋化学,海洋生物学,海洋物理学,海洋気象学などの多岐にわたる分野の研究者が海洋大気境界層(海面から高度約2kmまで)から境界面を挟んだ海洋表層(有光層約200m以浅)を研究対象域として絞り込み,共通した研究課題に研究船での共同観測,地上大気観測および衛星観測の手法を用いて取り組んだ.この総合研究プロジェクトは,従来の研究分野の垣根を越えた,大きな枠組みで行うことが可能な本特定領域研究によらなければ実現不可能であった.野外観測時の自然突発現象の出現等の機会にも恵まれ,その達成度と波及効果は,我々の予想をはるかに上回るものであった.

南大洋や北太平洋においては鉄が生物ポンプによる炭素隔離を促進することが人為的な鉄散布実験で確認されていたが,W-PASSにより北太平洋中高緯度海域では大気からの自然現象による鉄供給量が,海洋の生物生産変動に大きく関与していることが黄砂の現場観測により確かめられた.また,火山灰中の鉄の供給により海域の生物生産が高まったことや,海洋生物による微量気体の生成量が増加したことが認められた.海洋上での揮発性有機物の測定や有機エアロゾルの化学組成分析からは,海水から放出された気体が海洋大気中で粒子化され,エアロゾルの増加を導くことが見出された.とりわけ2008年のハワイ島・キラウエア火山の噴火は,北太平洋中央部でのエアロゾルの増加をもたらし,雲粒径の減少と雲被覆率を高め,洋上で負の放射強制力を強め,表面水温の低下を引き起こし,海洋生態系に間接的に影響した可能性が観測により明らかにされた.このように地球表面の70%を覆う海洋大気中のエアロゾル生成消滅過程の直接的な計測手法の開発により,大気海洋間の諸過程の重要な知見が得られた.

一方,北太平洋亜熱帯海域では地球温暖化により,海洋表面の成層が強化され,窒素固定を行うプランクトンの増加を引き起こすが,この過程においては大気からの物質の供給が極めて重要であり,プランクトン消長の制限因子になることを明らかにした.それに加えて,低気圧の通過や台風の発生と移動など気象現象による湧昇が生物生産を高めているという観測事例を基に,船上での台風模擬実験を実施した.その結果,大型の珪藻類が増加し,深海への炭素輸送が促進される可能性を見出し,モデルによる定量化に成功した.これらのことは,気候変化に伴った海洋構造の変化が海洋生態系,およびそれに連動する海洋大気への生物起源気体の放出や生物の炭素循環への寄与に影響する可能性を示唆している.

W-PASSでは地球規模での人類活動による影響を受けつつある海洋大気と海洋環境の,生物が介在する相互作用を解明しただけではなく,観測結果に基づく全球物質統合モデルの高度化と影響予測に対しても大きな進展と影響を与え,国際的な科学コミュニティからも高い評価を得ている.その成果は600編近い査読論文として公表されているほか,若手研究者育成として31名の修士,12名の博士修了者を輩出した.