東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001 東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001

大気海洋研究所の50周年に寄せて

気候システム研究センター設立前史

松野 太郎

[元気候システム研究センター センター長]

1991年4月東京大学の1部局として,全国共同利用施設の気候システム研究センターが発足した.1985年のオゾンホールの出現とそれに対応する1987年のモントリオール議定書の成立,1988年北米の猛暑をきっかけとした地球温暖化問題の国際政治問題化(IPCCの設立)という1980年代後半における「地球環境問題」への世界的な関心の高まりを受けたものとして,きわめてタイムリーで適切な大学と文部省当局の動きであった.このようにタイミングよく物事が進んだ背景には,関連研究者コミュニティ,特に日本気象学会における長年にわたる関心と努力があり,私自身それに関係してきたので,そのことを記しておきたい.なお,同時にいわば姉妹機関として京都大学に設置された「生態学研究センター」についても,そのコミュニティにおける長い前史があることをこの時に知った.

気象学会における動きは,1963年にさかのぼる.1950年代,長いあいだ気象学の中心的な課題であった天気予報は,電子計算機の登場に伴って,それまでの天気図解析と専門家の知識に頼っていた主観的・経験的予報から,大気力学の方程式を数値的に解く数値天気予報へと転換し,気象庁でも1959年には電子計算機を導入して数値予報が業務として開始された.これと並行する時期,1957年のスプートニク打ち上げに始まる宇宙時代の幕開けによっても気象学は大きな影響を受け,地球全体の大気を実験室の中の現象を見るように観察し,物理法則を基礎として定量的に分析し理解する近代科学へと脱皮した.この大きな変革は,中心地であった米国において著しく,多くの大学の気象学科(Department of Meteorology)は大気科学科(Department of Atmospheric Science(s))と改称し,学会誌の誌名も同様に変えられたばかりでなく,内容も天気図を描いて分析するものは掲載されにくくなり厳密科学的議論が推奨された.さらに,ビッグサイエンス化,総合化に対応する体制として,米国大気研究センター(National Center for Atmospheric Research, NCAR)が1960年に設立された.NCARは観測用航空機や大型コンピュータほかの研究インフラを備え,多数の研究者と技術スタッフを擁して,大型プロジェクト,総合的研究の場となった.

このような米国の動きを見ていた日本の大学関係気象研究者は,1963年に気象学の将来の発展方向と研究体制について検討する自主的グループを作り,レポートをまとめた.丁度そのころ日本学術会議では,各学門分野における将来計画の策定を進めていたのであるが,気象学分野では学問の将来を広く議論するという習慣がなく,このままでは置き去りにされると心配された九大の澤田龍吉先生が気象学講座のある各大学助教授に呼び掛けて,「澤田委員会」を作り将来計画をまとめたのである.私は東大の助手であったが,都田菊郎助教授がシカゴ大に出張中だったため,かわって参加することになった.澤田委員会では気象学の将来についてまず研究の中身に関して活発な議論を行い,次いで必要な研究体制についても案を作りレポートにまとめた.米国の動きに刺激されていたので,NCARに相当する大型研究,総合研究の場として,「大気物理研究所」の設立を提案した.この研究所の機能の一つは,大型コンピュータを保持して日本の研究者全体の協力により大気大循環の数値モデリング研究を進めることであった.

大気物理研究所設立案は,その後気象学会での討論を経て学術会議に提案され,そこで広く他分野のサポートも得て1965年に学術会議から政府に勧告された.これを受けて実際に研究所を設立するには,どこかの大学の附置研究所として受け入れられねばならない.最初は東大が第一候補であったが,中心となるべき正野重方先生の健康がすぐれず活動が難しいことから,しばらくの後,京都大学附置とすることが関係者で合意された.京大では山元龍三郎先生が中心となって努力された結果,学内の賛同が得られ,1973年度の予算が策定されるまでになった.しかし,そのころ,政府の財政状態悪化や大学紛争を経て大学への風当たりが強くなっていたことなどから実現の見通しは困難になっていた.そして数年後,研究所そのものはあきらめ,いくつかの大学で気象学の教授・助教授のポジションを増やすという形で終止符を打たざるを得なかった.

これらの成り行きの中で,私自身が一番気になっていたのは大気大循環そして気候の数値モデルによる研究を行えるようにすることである.多くのプロセスの組み合わさった気象・気候に関する現象を物理の基礎に立って明らかにするのに,数学的な「理論」で可能な範囲は極めて限られており,数値モデルなしでは進歩はおぼつかない.一方,アメリカでは,1960~70年代に強力なコンピュータ能力を利用して数値モデルによる研究が活発に行われていたが,その中心を担っていたのは,ほかならぬ日本出身の先輩たちであった.さらにヨーロッパでも70年代後半以降,異常気象や地球温暖化の懸念といった社会的背景のもとで新しい研究センターが相次いで設立されるようになった.

日本では,気象庁の気象研究所で数値天気予報の改良や将来の長期予報の基礎として数値モデルの開発と研究が行われており,1980年のつくば移転を機に専用のコンピュータが設置されて世界に伍し得るセンターとなった.しかしながら,欧米の研究機関に比べると研究者数は少なく,一方,いずれ地球温暖化をはじめとする地球環境問題が明らかになり,それに対応する社会の要求が高まってくることを考えると,大学でも気象,気候さらに地球環境の数値モデル研究を行うことが必要なことは明らかであり,専門分野の社会的責任であると私は考えていた.そこで,1984年に岸保勘三郎先生の後を受けて私が東大の気象学教授になったとき,自分自身は数値モデルの専門家になれないけれど,近い将来,地球温暖化や気候変動の研究が社会的重要課題となった時,それに応じられるようにと考え,気象庁で数値予報に携わっていた住明正さんを助教授に迎え,気象・気候の数値モデル研究の第一歩を踏み出した.彼は,大学院生と一緒に気象庁の予報モデルを使って熱帯の対流雲群の変動の基礎的性質を調べたり,海洋物理学の杉ノ原伸夫助教授との協力で大学院生を指導し,「気候」を扱う時に必要な大気・海洋結合システムのモデルを開発したりして基礎固めを進めていった.

こうしているうち,IPCC設置の翌年1989年に文部省で「新プログラム」の適用による地球環境の総合的研究が取り上げられ,その一環として気候システム研究センター設立の企画が正式に検討対象となった.この時,文部省の担当者から「研究の場の整備」として何かあるか? と聞かれた時に私がすぐに出した文書は,当時ちょうど議論が進んでいた地球科学各分野における将来計画の一部で,検討を進めるための科研費総研Aの代表者である九大教授の瓜生道也さんが準備された研究センターの素案であった.その後,改めて学術会議の気象研連で了承され,瓜生さん,東北大教授の田中正之さんと一緒に文部省の担当者を訪ねてコミュニティの意思を伝え,他方,東京大学での検討も経て1991年に発足することとなった.振り返れば澤田委員会から28年,当時は助手・大学院生であった世代が推進の中心になっていた.