東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001 東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001

大気海洋研究所の50周年に寄せて

大気海洋研究所設立50周年を祝して

平 啓介

[元海洋研究所所長]

設立50周年を心からお祝い申し上げます.私は1997年4月から2001年3月まで所長を務め,2004年に沖縄に帰り琉球大学の東の中城湾に面した中城村に住んでいます.近くに沖縄最大の石油精製工場である南西石油があり,原油搬入や離島輸送のタンカーが多数停泊し,汽笛で目が覚めるときは研究船に乗っているように思い,海洋研究所時代が懐かしくなります.沖がかりの船から通船で上陸し,知らない異国の街を散策したことがありましたが,中城湾のタンカーから船員が下りてくる様子はありません.中城村に上陸しても海岸はサトウキビ畑だけでショッピングセンターまで4,5kmもあり魅力もありません.海洋研究所には1967年から2002年まで勤務しました.研究船による海洋物理学の観測研究で,多い年は1年に100日以上も乗船していました.沖縄に住んでいると東京が遠くなり,転居と家の取り壊しで多くの資料を失い記憶だけになってしまいました.

所長就任時の1997年の海洋研究所は移転,改組,大学院開設が課題であり,研究活動の活性化とともに取り組むことになりました.

1962年の設置から35年を経て,研究船を利用する海洋研究の活発化で観測機器倉庫に収納できない研究資材が中野キャンパスの敷地にあふれ,採集標本が研究室を占拠するようになっていました.白鳳丸の岸壁は晴海,淡青丸はお台場にあり,航海の機材積み込み,積み降ろしのトラック10台以上の輸送は都心を抜けて長時間を要しました.研究効率の向上のために海に近いキャンパスに移転することが長年の願いでありました.歴代所長の在任期間に横浜市,横須賀市,千葉市,習志野市,市原市などが候補地として挙げられ,将来構想委員会を中心に見学に出かけました.また,学内では検見川キャンパス,西千葉キャンパスがありましたが,臨港研究所は実現しませんでした.2010年3月の柏キャンパス総合研究棟への移転で狭いキャンパス解消の夢が実現しました.私が所長のころは駐車場に船舶用コンテナを5個ほど設置し,観測機器倉庫と研究室の狭隘解消を図りました.

研究組織は16の部門で構成されていました.1962年に2部門で設置され順次部門が設置され,1975年の大洋底構造地質部門の設置で当初計画の15部門が完成しました.1990年に10年の時限の海洋分子生物学部門が設置されました.学生の教育を目的とする学部と異なり,研究を目的とする組織の寿命は20年で,設置後20年を経た研究所は廃止すべきとの極論もありました.教授1人が部門の責任者であり,助教授以下の若手教員の自主独立を進めるために大部門制の導入が望まれるとの主張もありました.海洋研究所では長年にわたり大部門制への改組が話し合われていました.将来構想委員会を中心に6部門16分野の改組案が1999年にまとまり,翌年3月に外部評価を受けて概算要求にこぎつけました.2000年4月の改組を祝して盛大に祝賀会を開催しました.講座研究費の配分は教授,助教授,助手で金額を定め現員ベースで配分するように運営も工夫しました.しかし大槌臨海研究センターなど附属施設の改組は次期の課題になりました.

大学院教育は研究所の重要な役割であり,教官は理学系研究科と農学生命科学研究科の教育に従事し,海洋研究所教官を指導教官とする約150人の大学院生は海洋研究所の研究室に在籍していました.海洋研究所における教育研究の場は所属研究室が主体で,研究船乗船時の交流や所内の談話会がありましたが,他の研究室,研究科の学生との交流は十分ではありませんでした.大型研究や所内研究で共同研究を実施していた教官の間で,海洋科学の確立のために海洋研究所独自の大学院を持ちたいとの希望が熱していました.1998年に新領域創成科学研究科が設置され,海洋環境サブコースを開設する可能性が高まりました.基幹講座,研究協力分野に教官を配置することが必要で,大学院生の定員を減ずることになる理学系研究科と農学生命科学研究科との折衝を行うことになりました.幸いにも両研究科の了承を得ることができ,2001年4月に新領域創成科学研究科・海洋環境サブコースが設置されることになりました.

科学研究費を獲得した大型研究も所員の努力で実施され,国際共同研究も活発に実施されました.個人的には東南アジア諸国との拠点大学方式の共同研究やユネスコ政府間海洋学委員会の活動が思い出深いものです.

所長在任中は所長補佐の先生方をはじめ多くの所員のご助力をいただきました.個人名は挙げませんが本当にありがとうございました.