東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001 東京大学 大気海洋研究所50年史 1992-2001

第4章 大気海洋研究所の組織と活動

4-3 東日本大震災への対応と復興

4-3-1 国際沿岸海洋研究センターの被災

2011年3月11日14時46分,宮城県牡鹿半島沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し,東北地方太平洋沿岸域は広く震度6弱~6強の激しい揺れに見舞われるとともに,その約30分後にはかつてない巨大な津波に襲われた.国際沿岸海洋研究センターが立地する岩手県大槌町を襲った津波の高さは最大12.6mと推定され(港湾空港技術研究所による),高さ約5mの防潮堤を優に越えて大槌町のほとんどを呑み込み壊滅的被害を与えた.大槌湾の湾口に近い場所に立地していた本センターでも津波の高さは最大12.2mに達し(佐竹健二本学地震研究所教授による),研究棟3階の窓付近まで水没した.この津波で本センターの研究棟,共同利用研究員宿舎,ポンプ棟などのコンクリート造りの建物はかろうじて倒壊は免れたものの,その他の車庫,船具倉庫,上屋などはいずれも全壊した.本センター前にそびえていた防潮堤も崩壊し,その内側の敷地もかなりの部分が崩落し,30面あった屋外コンクリート水槽の半分以上が水面下に没した.本センター地先の係船場と蓬莱島(ひょうたん島)をつないでいた防潮堤も跡形もなく崩壊し,係船場も地震に伴う地盤沈下のために満潮時には冠水する状態となり使用不可能となった.「弥生」はじめ3隻あった調査船はいずれも流失した.そのうち「チャレンジャー2世」と「チャレンジャー3世」の2隻は5月に入って相次いで大槌町内の瓦礫の中から見つかったものの,破損状態がひどく使用不可能な状態であった.1977年から35年にわたって大槌湾の水温・塩分,気温・湿度・風向・風速などを記録してきた海象・気象自動観測記録装置も流失し,装置を装着していた海象ブイは本センターの門付近に打ち上げられ無残な姿をさらしていた.船具倉庫内の観測機器類はいずれも流失し,研究棟内の分析機器室や恒温実験室に設備されていたレーザーアブレーションICP質量分析装置やガスクロマトグラフ質量分析装置,画像解析システムをはじめとするすべての研究設備が全壊あるいは流失し,残ったものも海水とヘドロにまみれて使用不可能な状態になった.2台の公用車とトラックを含め,本センター敷地内に駐車していた自動車はすべて流された.多くは後日近隣の瓦礫の中から無残な姿で発見されたが,トラックなど何台かは海中に運ばれたものと思われ,いまだに発見されていない.

この震災で本センターに人的被害がなかったことは幸いであった.地震・津波発生時には大竹二雄センター長はじめ教職員8名(教員2,事務職員2,技術職員3,非常勤職員1),学生・特任研究員4名,共同利用・共同研究者4名の合計16名が本センターに,この他に学生3名,非常勤職員4名が大槌町,山田町,釜石市,宮古市などにいた.本センターで被災した16名は大津波警報発令とともに全員が赤浜三丁目避難所に避難して無事であった.その後,赤浜地区で発生した火災を避けて吉里吉里地区にある特別養護老人ホーム「三陸園」に移動し,13日までに救援活動や本センター以外で被災した職員・学生の安否確認のために現地に残った大竹センター長を除く教職員・学生・特任研究員は全員自宅に向けて大槌町を後にすることができた.本センター以外で被災した7名の学生・非常勤職員についても3月15日までには全員の無事が確認できた.残念ながら4名の教職員・非常勤職員の自宅,多くの学生のアパートが流失した.

3月17日から5月14日までの間,計11回にわたり本センターの教員と学生を中心に被災状況の調査,研究機器や資・試料,RI(放射性同位元素)を含む試薬類の回収作業や支援物資の輸送が行われた.毒物・劇物類の90%,その他の試薬類も90%を回収することができた.RI実験室が3階に配置されており被害が比較的軽微だったためRIの流失や汚染がなかったことは幸運であった.貴重な液浸標本をはじめ,資・試料の多くが流失,また回収されたパーソナルコンピュータのハードディスクに残されたデータもそのほとんどが復旧できなかった.